幼少期
1912年12月24日、茨城県猿島郡新郷村の鹿倉家に、父(浅之丞)母(よし)の間に八人兄弟の四男として生まれる。朝日とともに生まれたので両親は大喜びだった。
小学校在学中は常に優秀な成績を収め、3年次に郡長より表彰を受ける。5年時の春、利根川の橋の下で生徒一同で「朧月夜」を合唱したことが強く印象に残る。
1928年、高等科卒業後は家業である農業を1年間手伝いながら、早稲田大学の講義録で独学した。
軍楽補習生の教場
海軍軍楽隊へ
1929年に茨城県境町で海軍軍楽隊を受験し合格。同年5月31日、長兄に付き添われて上京し、鎌倉の旅館で一泊。係官から細かな説明と注意を受ける。6月1日に横須賀到着。横須賀海兵団第10分隊(軍楽兵)として入隊し、ホルンを担当する。入隊時、出迎えの軍楽隊が演奏する「軍艦行進曲」に強く感激した。
同年9月、「君が代行進曲」の練習が始まる。同じホルンの楽譜でも1,2,3番と皆異なり、それらが重なり合って美しい音を構成することを知り、音の仕組みの複雑さに興味を持ち始めた。同年11月、新兵課程を成績2番で卒業し、3等軍楽兵となる。外出が許されると真っ先に楽器店に飛び込み、有り金をはたいて輸入版の総譜を手に入れた。「バクダッドの酋長」序曲だったが、まだ聴いたこともないオーケストラの演奏を思い浮かべて心躍った。1930年には軍楽補習生を首席で卒業し、横須賀海兵団軍楽隊の定員として横須賀に残る。
1931年2月20日、練習艦隊司令部付軍楽隊としてヨーロッパ、地中海方面に出発。最下級の隊員だったため、「船酔いする暇もない」ほど多忙な生活を送る。御召艦「榛名」、重巡洋艦「愛宕」、軽巡洋艦「木曽」などに乗組み、軍楽修練の傍らに海軍軍人生活を送る。
1932年11月、東京音楽学校に海軍委託学生として入学するため、東京築地にあった横須賀海兵団軍楽隊東京分遣隊に異動。練習と作曲に没頭できると胸躍らせてきてみると予想は大外れ、最下級隊員は山ほどある雑用で目の回る忙しさであり、その間を上手に利用して弦楽の勉強と作曲の研究に当てなければならなかった。東京音楽学校には週2日間通い、ヴァイオリン・チェロ・ピアノを午前に、声楽と外国語を午後に学ぶ。
1929年 軍楽隊入隊時
海軍軍楽隊での活躍
「鹿倉節」の誕生
1933~1934年頃から勤務の合間を見て作曲をはじめる。海軍省から隊長あてに歌曲の歌詞が届くと、作曲の時間が設けられ思い思いに作曲した。斉藤は近くを流れる堀川のほとりで作曲することが多かった。このとき行進曲5曲と円舞曲2曲を作曲し、軍楽隊長の内藤清五に提出したが、試演の結果不採用。内藤は黙って楽譜を返却するだけだったため、改善点がわからず苦心した。
翌年1935年には「くろがね会会歌」が初めて採用され、感覚を掴んだ斉藤は、3月に改めて行進曲「空軍の威力」を作曲し、内藤に認められてついに採用された。「空軍の威力」は即日写譜の上、全隊に配布するように指示が出され、斉藤は「ああ、この日が来るのをどれほど待っていたことか!」と漏らしたという。また内藤は「久しぶりに良曲が出た」と称賛した。1935年夏以後、行進曲作曲の道を本格的に歩み始め、「国民の意気」「怒涛を蹴って」「海の戦士」など、型にとらわれない自由な作風のマーチを次々と量産。
1937年4月、ジョージ6世戴冠記念観艦式に参列するため重巡洋艦「足柄」の軍楽隊員としてヨーロッパを巡航。航海中には「足柄の歌」と、行進曲「足柄」を作曲し、帰還後にレコードで発売された。また同年11月には「愛国行進曲」をトリオとした行進曲「愛国」を作曲し、音楽界から絶賛を受ける。
この頃から、斉藤の作風は「鹿倉節」「シカクラ・マーチ」と呼ばれるようになり、隊内では有名になったが、作曲者名を公表しない風習のもと、一般社会に斉藤の名が知れ渡ることはなかった。また時勢の影響で軍歌・愛国歌の編曲が増え、腕により磨きがかかっていった。徹夜や不眠不休の創作は日常茶飯事だったという。1938年11月、作曲・編曲の功労により所轄長より善行表彰を受ける。11月15日に結婚し、斉藤と改姓した。
1937年頃
1939年
栄誉と終戦
1940年の紀元二千六百年に際し、大行進曲「建国」「大日本」、行進曲「紀元二千六百年」など奉祝曲を多数作曲。日本文化中央連盟から委嘱されて作曲した「大日本」は、第一回吹奏楽コンクール(集団音楽大行進並大競演会)の課題曲となる。
1942年12月、支那方面艦隊軍楽隊員として上海へ。1944年に内地へ帰還すると、戦局悪化により東京音楽学校への通学中止を強いられる。しばらくは鉄兜にゲートル巻きの姿で教授が出張授業を行ったが、空襲激化によりそれも中止され、斉藤が部下の声楽と作曲学の指導を担当。防空指揮官を兼任した。部下20名を率いて隊舎の近くに落ちた焼夷弾で発生した火災を必死に消火し、短時間で延焼を食い止めた。
1945年8月の終戦により、海軍軍楽隊解散。最終階級は海軍軍楽中尉。楽譜と手稿譜を焼却から守るために持ち帰り、8月31日に復員。軍楽隊員として、終戦までの間に作曲76曲、編曲140曲の合計216曲の創作に携わった。
1941年作曲の自筆譜
戦後
「アイリス音楽院」
終戦直後はジャズ・ピアニストとして生計を立てたが、斉藤にとっては気が進まない仕事であった。晩年の回想では、戦後町中で吹奏楽の音色が聞こえてくると、「激務の海軍時代を思い出して耳をふさいだ」と述べている。のち、国際音楽学校教師を経て、音楽の個人教室である「アイリス音楽院」を設立し、ヴァイオリン、ピアノ、音感、作曲学の指導を始める。
埼玉県鴻巣市や東京都大田区久が原などに複数の教室を展開させた。作曲活動はほとんどせず、専ら音楽院の発表会のための編曲に専念。生徒一人ひとりのレベルに合わせた適切な個人指導を旨とした。
1970年頃には、テレビ番組「ああ戦友、ああ軍歌」第12回「栄えある海軍軍楽隊」に楽水会メンバーとともに出演し、自作の行進曲「太平洋」を指揮した。
1976年8月、長年のブランクを経て行進曲「海国日本」を作曲し笹川賞を受賞。同年9月13日、東京消防庁音楽隊の日比谷公園金曜コンサートにて、自作円舞曲「浜辺」、行進曲「海国日本」を客演指揮。
1976年撮影
晩年
創作意欲の再燃
1986年からアイリス音楽院を御息女のS.K.氏に託し、斉藤は静かな引退生活を送っていた。1991年、八王子で行われた海上自衛隊東京音楽隊ファミリーコンサートにて、谷村政次郎隊長(当時)指揮のもと接続曲「興国日本」が演奏され、家族とともに鑑賞。満場の拍手を浴びてインスピレーションを受けた斉藤は、1992年1月、思い出にある軍歌・唱歌を集めた接続曲「あの頃の響き」を作曲し、1993年8月に町田の海上自衛隊東京音楽隊ファミリーコンサートにて再び谷村隊長指揮のもと初演された。
創作意欲を再燃させた斉藤は、終戦時の混乱で散逸した自作品の整理や復元を始めた。また、1993年10月に歌曲「あこがれの海」の作詞作曲を行い、1994年1月15日にはマーチに編曲した行進曲「あこがれの海」を完成させた。
行進曲「あこがれの海」を完成させた直後の1月下旬には、持病のため北里病院に入院。同年4月18日、高知県土佐清水市の病院に転地療養した。入院中、悪性リンパ腫による高熱に苦しみながらも医師や家族の目を盗みつつペンを執り、行進曲「海」「嗚呼、楠公」「美の夕やけ」の作曲を続けた。病床で必死に五線紙に向かう斉藤の姿は「なにかに取り憑かれたよう」であり、また「失われた時間を取り戻すよう」でもあった。
1994年6月4日午後7時35分、永眠。享年81歳。墓所は富士霊園。死後、病室からは震える筆跡で書かれた前述の3篇のスケッチが未完のまま見つかっている。
1995年6月、斉藤の作品を17曲収録したCD「軍楽隊とともに歩んだ…日本の吹奏楽3 斉藤丑松作品集」が、谷村政次郎指揮・海上自衛隊東京音楽隊の演奏で出版された。
「あこがれの海」披露パーティーにて
1993年 書斎にて